愛されずして沖遠く泳ぐなり
最近知った現代俳句にこんなものがあります。
「愛されずして沖遠く泳ぐなり」
これは、藤田湘子という現代俳句の方がつくった句ですが、なにかとても絶望的なようだけれど、非常に美しい、命の響きがある句だと感じ、紹介したいと思いました。
藤田さんには水原秋櫻子と石田波郷という立派な師匠がおり、その二人に教わっていたときの鬱屈とした気持ちや、なんとも切ない師弟愛を描いているということですが、恋愛や人間関係に置き換えてもこういったことはままあるのではないかと思います。
愛されないということは、人間にとって大きな傷です。 いくらすべては愛であるとか、神様はすべてを愛しているとか言ったところで、ちっぽけな私たちは容易に人を憎み、平穏そうに見える日常のいたるところで傷ついたり傷つけたりします。 「わたしたちすべてが愛されている」なんてことは絵空事のように感じることも多いかもしれません。
「愛されずして沖遠く泳ぐなり」という句は、そういった終わりがないかに見える苦しみに新しい視点を与えます。
孤独に溺れそうになりもがいている状態からすーっと離れ、自分を天から俯瞰するかのような視点で描かれているからです。
大きな孤独の海にぽつりと浮かんでいる人間の姿を想像すると、それがたとえ自分であっても、すぐさま助け出して抱きしめてあげたいような気持ちになりませんか。
終わりのない孤独の遠泳は、本人にとってひどい苦痛であり、人生の意味を根本から疑うような経験でしかないかもしれません。
しかし、そのような孤独の海を泳ぎ続けている自分自身をひとりの他者と俯瞰し、いとおしく思うことで、なにか人間は心の底からの孤独からすこしだけ救われるように思います。
その海に果てが見えないとしても、泳ぎ続けた分だけは、どこかへ向けて進んでいるのです。
根本的に人間はみな孤独で、自分のいちばんそばに居られるのは、自分だけです。 でも、逆から考えるとそれは悲しいことではなく、自分さえ傍にいてあげられれば、たとえ世界一ひとりぼっちだったとしても、そんな自分にやさしい愛情をかけてやれるのです。 そして、自分で自分を愛せる人は、たぶん誰かのそばにも居られるでしょう。
わたしはまだ心の底からすべてを実感し体験できているわけではありません。
しばしば孤独の海をひとりぼっちで泳ぎ続けて、誰にも知られずに死んでゆくのかなぁなどと考えもします。
しかし、傷を持ち泳ぎ続ける自分を否定して、そこから抜け出そう、なにもかも克服しようともがくのではなく、自分をかたちづくる傷とそれをもった自分を、少しずついとおしく思っていってあげたいなと、最近考えるようになったのでした。